ブログというか、まぁ思いついたものを書いています。 ショートアニメを作っています。元舞台役者です。
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認知症の母と同居して14年ほどの事。
ある日、母は体調をくずし、入院することになりました。入院すると同時に、認知症の症状も進み、私と愛妻だけで同居介護をするのは、もう無理だと結論に至りました。適切な施設を探すのも、手続きをするのも大変な仕事でした。
とはいえ、ゆったりとした日々が始まりました。同居している間は、朝から大忙しでした。着替えやトイレ、朝食の介助。デイサービスの準備など、やることがたくさんあったのです。母に施設に入ってもらってからは、のんびりとする時間ができるようになりました。
その日は、夫婦そろって、二度寝の朝寝坊を楽しんでいました。すると、家の電話が鳴りました。ご近所さんからでした。
「お宅のゴミが大変なことになっていますよ!」
見ると、カラス数羽が、我が家のゴミ袋を破って、中の残飯をあさっているのです。ゴミは道いっぱいに広がっています。今までこんな事なかったのに!
母を施設に入れたことが原因だったようです。
これまで、ゴミの日には母のオムツを一緒に出していたのです。我が家のゴミからは、大型雑食獣の糞尿のにおいがしたのです。それは、素晴らしいカラスよけになっていてくれたのですね。母と別居したからには、我が家のゴミ袋からは美味しい残飯のにおいしかしません。カラスも大喜びです。カラスよけのネットも使っていたのですが、その使用期限はとっくに過ぎていたのです。
認知症になってからの母は、完全に我が家のお荷物で、何一つ役に立っていないと、私は思い込んでいました。しかし、人間には思いがけない役の立ち方というのがあるものです。
離れて住んでみて、親のありがたみがわかりますね。
English
イラスト by visekart
母に認知症の診断がおりた頃、近所の写真店を経営する夫婦と認知症の事で話したことがあります。その夫婦も認知症の親を抱えていたのです。
ある日、夫婦が満面の笑顔で私に言いました。
「やっと特養に入れることになったんですよ!」
実はこの頃、私はまだ母の介護をはじめたばかりで、この言葉と満面の笑顔の意味がわかりませんでした。親を施設に入れるのに、何を喜んでいるのだろうとか思っていました。
十数年の同居介護を経て、私も、母を施設に入れる決断をしました。下の世話も始まっていて、つらかったです。認知症患者は24時間年中無休の世話を要求します。私は眠る時間さえ確保できず、死ぬほど忙しかったです。認知症患者は事故を起こしたり、巻き込まれたり、転んだりします。私は常に重い責任を背負っていました。しかし、ついにここまで、無事たどり着いたのです。母を施設に入れた日から、生活は一変しました。つまり、何のハンディもない、普通の暮らしに戻ったのです。それは素晴らしいことでした。この喜びを満面の笑顔で誰かに伝えたいと思いました。
でも、やめました。この喜びは、本当に介護で苦労した人にしかわからないのです。私がどんなに嬉しくても、客観的には親が病気で衰弱したのです。家族と別れて住むことになったのです。在宅介護をあきらめたのです。満面の笑顔で表現すべき事ではないのかもしれません。表現された方も、「おめでとう」とは言いにくい状況です。
介護のゴールは入所か、入院か、葬式です。つらく長い道の果てに、誰もが手放しで喜んでくれるという結果は待っていません。
これが介護のつらいところですね。
English
イラスト by koti
認知症介護には24時間365日介護が必要な時期があります。自力で外出できるけど、自力で帰宅できなくなる時期です。徘徊といわれるこの時期、同居家族はすごくつらいです。誰かが、ずっとついていなくてはならないのです。
しかし、それから解放される時期が訪れます。本人に、自力で外出する気力と体力がなくなる時期です。しかし、この時期は別の意味で、つらい状態も始まります。トイレの世話が始まるのです。
トイレがどこかわからないので、トイレではないところで、トイレをしてしまいます。その後片付けのつらさは言葉にもなりません。
トイレの失敗をさせないためには、定期的にトイレに誘導して用を足すようにしなくてはいけません。トイレの介助は症状が進むごとに、介護側の負担が大きくなっていきます。
この時期、意外な障害があって、驚いたことがあります。両手をひいてトイレ誘導するのですが、居間から廊下へ、廊下からトイレへ移動するとき、母の足が止まるのです。しばらく立ち止まり、段差を乗り越えるように敷居をまたぐようになりました。
居間と廊下とトイレでは床の色が違います。認知症患者は床の色が違うと、それが床の色の違いなのか、段差なのかわからなくなるのです。これを奥行き知覚の障がいというそうです。
私達は自分の住んでいるところの床の色を覚えていて、どこが段差なのか覚えていますが、認知症患者には覚えられません。床の色が違うと、怖くて足を踏み出せないのです。
今更、床の色を変えるわけにはいかないので「ここは床の色が違いますよ。歩いても大丈夫ですよ」と毎回声をかけていましたが、こうなることがわかっていれば、床の色を統一したのになぁ。
これから終の家を手に入れるみなさん。床の色は同じ色にしておくと、後々便利かも知れませんよ。
English
イラスト by Vladfree
おかげさまで、「記憶は消えてしまうからー認知症の母との5110日―」電子書籍版の発売となりました。みなさまの応援のおかげです。
なんと! 出版社に、台湾から翻訳版権の問い合わせがあったそうです。もしかしたら、台湾で出版されるかも? いつも英語でも書いているので、英語圏から問い合わせがあったらいいなぁとか思っていましたが、まさか台湾とは!
紙の本もよろしくお願いします。名古屋市内の各書店に「私の本を置いてください」と、お願いに回っています。
書店員さんに声をかけるとき。
「著者の三浦周二朗という者ですが・・・」
と、言うのですが、
「いつもお世話になっています」
と、返されて恥ずかしいです。いつもお世話してきたほどの著者ではないのです。
ある書店の店員さんは、私が声をかけたとたん、びっくりしたのか、手に持っていた文具を床にぶちまけてしまいました。ごめんなさい。びっくりするほどの著者ではないのです。
書店員の友人から、書店は月曜日、比較的ヒマ、という情報を得たので、毎週月曜日に書店周りをしてきましたが、ご時世柄控えた方がいいのかしら?
私がいつも利用していた、金山(かなやま)の書店は私の出版を待たずして閉店してしまいました。その店に「私の本を置いてください」と、お願いに行くのが夢だったのに。私が最近、電子書籍ばかり読んでいるので、閉店してしまったのかも知れません。ごめんなさい。
誰かが認知症になった場合、家族は最初、その事をなかなか受け入れられません。何かの間違いではないかと思います。そして、認知症が不治の病であることを受け入れるのも難しいことです。「どこかの有名病院の名医にかかれば、治るかも知れない」と、あがきます。我が家もそうでした。
しかし、現在のところ、認知症に完全な治療法はありません。
しばらくすると、介護家族は、みなその事を受け入れるようになるのだそうです。ある本によると、いったん受け入れた家族はもう、新薬の開発による回復を期待しないようになるそうです。私もそうでした。治らないのではしかたがありません。母は目の前にいますが、聡明な母には二度と会えないのだと理解しました。
母に認知症の診断がおりて、6年ぐらい過ぎた頃のことです。家の改装に関して父と話をしていました。私は改築にかかる費用を、母の預金から出そうと提案しました。私達は同居していましたし、介護のための改築ですから、合法です。しかし、父が断固拒否したのです。
「そんなことして、ますみが治ったら、俺が怒られるがや!」
びっくりしました。この人は母の病気が治るかも知れないと、まだ信じていたんです。
父はその後、間もなく他界しましたが、最期の瞬間まで、母の病気が治るかも知れないと信じていたんでしょうね。
あるいは新薬が開発され、突然、母が治る可能性もまだ、ゼロではありません。
治ったら、言いたいことがたくさんあります。まぁ、ほとんど文句ですよ。
認知症の治療法が早く発見されるといいですね。
English
イラスト by graphs