ブログというか、まぁ思いついたものを書いています。 ショートアニメを作っています。元舞台役者です。
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やはり文豪と呼ばれる人の作品には触れておきたいですね。今まで何度も挑戦しています。しかし、明治の文豪だったりすると、使っている言葉が難しいです。当時の読者なら、当然だれでも知っているという事などを前提に書かれたりします。脚注の解説を見ればいいのですが、本文を読んだり、脚注を読んだりしていると、訳が分からなくなります。なかなか読破は難しいですね。
先日、とある明治の文豪の作品を読んでおりましたら、ある言葉に脚注がついていました。脚注を読むと「誤字と思われる」と書いてありました。
相手は明治の文豪ですからね。若い研究者では、おいそれとは誤字と判断できないのですね。
文豪になんてなるもんじゃありませんね。こそっとなおしておいてあげたらいいのに。誰でもしますよ、誤字くらい。
人間は、間違いを気やすく指摘してもらえないほどに、偉くなってはいけませんね。
イラスト by nature
作家、塩野七生さんの「ローマ人の物語」(新潮文庫)によると、古代ローマ人のインテリは基本的にバイリンガルだったそうです。母国語であるラテン語と、教養として、ギリシャ語を勉強したのだそうです。
母国語じゃない言語を勉強するのは大変ですね。私達も英語でえらい目にあいました。
古代ローマはギリシャを支配していましたので、上流階級の家にはギリシャ人の奴隷がいたそうです。仕事はその家の子どもにギリシャ語を教えること。
このギリシャ人達はどういう感じだったんでしょうね? 仕事は先生。身分は奴隷。主人の子どもに教えるというのは複雑ですよ。
ところで、日本の公立学校の先生の残業は月100時間を越えることも珍しくなく、残業代がちゃんと支払われないことも多いとか。
あ! こんな感じか?
English
イラスト by よぴんこ
私はどちらかというと「出たきり」で、芝居をやっていた頃は家には寝に帰るだけでした。人とワイワイ、ガヤガヤするのが好きです。
認知症の母の介護が本格的になると、ずっと家で母を見張っているという生活になりました。強制的に引きこもりのような生活をすることになりました。
それが、慣れてみると、思いの外、心地いいのです。本を読んだり、ゲームをしたり、家でできることは案外多いです。不本意で、深刻なひきこもりで毎日苦しい思いをされている方もいるでしょうが、引きこもりの生活そのものは、それはそれでおもしろさがあるようにも思えます。
世の中には「引きこもりタイプ」という人がいるんじゃないでしょうか? 人前に出るのが苦手で、じっくり物に向き合うのが好きという人もいるはずです。
古代ローマの第二代皇帝ティベリウス。どうもこの人は「引きこもりタイプ」だったらしいですね。次期皇帝として皇帝の補佐をしなくてはならない時期、この人はロードス島という島に引きこもってしまいました。皇帝に即位した後も、カプリ島という島に引きこもってしまいました。引きこもりといっても仲のいい友人達と小さな島で暮らしていたという感じです(「ローマ人の物語Ⅵ-パクス・ロマーナ-」塩野七生著、2014年、㈱新潮社)。
昔も今も、ひきこもりの評判は悪いです。ティベリウスは当時も、それ以降数世紀間、暗君だと思われていました。
17世紀末頃からこの人に対する評価が変わってきました。実は名君だったのではないかと。
この人は全ての責任を放り出して、引きこもっていたわけではないのです。ローマ全土から情報が自分の所に集まるように手配して、自分の指令が隅々まで届くようにしていました。情報の行き来さえできていれば、どこにいたってかまわないのです。人気取りの政策は一切しない人でしたが、災害などがあったときには迅速に決断し、適切に対応していたらしいです。
暗君の汚名を着たまま1700年。真の名君とはそういう人かも知れませんね。
今は家にいたまま、色々なことが出来る時代です。現在、周囲からひんしゅくをかっている引きこもりですが、1700年後、人類を救うような偉大な功績を成していた人がいたことが、誰かに発見されるかも知れませんね。
English
イラスト by vectorpocket
私は子どもの頃、病弱で、よく風邪をひきました。風邪をひくと、決まって、私の祖母の妹、大叔母の病院へ連れて行かれ、注射をうたれました。当時の医者は風邪をひくと、すぐに注射をうったモノです。私にとって、大叔母が医者なのは当たり前の事でしたが、これは大変な事だったのです。
以前ご紹介した、私が認知症の介護をした大叔母とは別の人物です。その人のお姉さんのお話です。
その大叔母は若い頃、医者になりたいと願いましたが、親(私の曾祖父母)に猛反対されたのだそうです。現代でさえ女性が医学部を受験しようとするだけで、信じられないほどの妨害があるのに、当時のことです。色々なハードルがあった事でしょう。しかし、大叔母は親の猛反対にひるむことなく、トイレに隠れて勉強し、見事、医大に入学、卒業、女医になりました。愛知県で最初の女性医学博士だそうです。「最初の女医」と言ってしまうと、漢方医の歴史とも照合しなくてはいけませんので「最初の女性医学博士」と、ちょっと歯切れが悪い。ですが、私が物心つく頃には、開業医になっていました。
私は風邪をひくたびに、電車に乗って、遠くの大叔母の病院に連れて行かれるのが不思議でしたが、最近、謎が解けました。フェミニストの母は大叔母を尊敬していて、私が風邪をひく度に、表敬訪問とともに、情報交換をして、さらに病院の経営の応援をしていたんですね。
大叔母には、お子様が四人いて、全員医者です。大叔母の夢としては、子どもを全員、別々の分野の医者にして、将来、みんなで、総合病院を経営するつもりだったようです。しかし残念ながら、現在、全員、別々の場所で医者をやっています。大叔母が曾祖父母の思い通りに育たなかったように、子どもというのは親の思い通りには育ちませんね。
大叔母の夢が叶っていれば、今頃、私はその病院のホスピタル・クラウンとして、雇ってもらえていたかも知れません。
English
イラスト by akaishi
1980年代の終わり、母はベトナムへ中古ミシンを送るという活動を始めました。日本の高度成長を内職で支えたミシンは国内では活躍の場を失いましたが、戦争で傷ついたベトナムでは必要とされるアイテムでした。母は1200台のミシンをベトナムに送りました。私もその活動に多少参加していて、ベトナムへ行く機会がありました。ベトナムのついでに、隣国カンボジアのアンコール・ワット遺跡へ行こうという事になりました。
当時カンボジアも戦争の傷が癒えない時代。陸路よりも飛行機で行った方が安全だという事で、カンボジアに近い、ベトナムの空港に行きました。ところがこの空港にびっくりしました。空港というよりも、地方の駅ぐらいの小さな一階建ての建物なのです。飛行機はまだ一台も来ていません。そこに沢山の人が集まっていました。100人を軽く越えるほどです。
やがて小さなボロボロの飛行機がやってきました。私は同行した日本人に冗談を言いました。
「あの飛行機に全員乗ったら、立って乗る人が出るよね」
一同大爆笑でした。
世の中で何が最悪って、冗談が本当になる時です。飛んできたのはその小さな飛行機一台きり。駅のような空港に集まった100人くらいの人たちは全員その飛行機に乗ったのです。立って乗る人? もちろんいましたよ! 通路もギュウギュウ満員列車状態です。私は運良く座れましたが、フライト・アテンダント以外が立って乗る飛行機なんて初めて見ました。
更に怖かったのは飛行機の内側の壁が至る所、ガムテープで補強されていたのです。え? この飛行機、壁にヒビが入っているのですか?
季節は夏。ベトナム・カンボジアはカラッとしていますが、暑かったです。その飛行機にはエアコンは入っていませんでした。
バリバリ、ミシミシとすごい音を立てて離陸。バラバラになるのではないかとドキドキしながら乗っていましたが、ようやく安定飛行にたどり着いたようでした。するとどこからともなく涼しい風が・・・。
(クーラー入れてくれたんだ。節約のために離陸するまでクーラーを入れなかったんだな・・・)
そうではありませんでした。上空の冷たい空気が、飛行機の壁の隙間から入ってきたのです。よく見るとガムテープの隙間から、真っ白い外気が飛行機内にプシューっと入ってきていました。やはり、この飛行機の機体にはヒビが入っていたのです。外気はドンドン入ってきて、ついには隣の席の人の顔が見えないくらい真っ白になりました。
この時代、この地域の立ち入りは制限されていて、アンコール・ワットの遺跡を見られる外国人は限られていたそうです。この3年後、世界遺産に登録されています。貴重な機会でした。
でも、何も覚えていない。あのボロボロの飛行機のことしか思い出せません。当時私はまだ19歳。私が歴史に興味を持ち始めたのはもう少し後のことで、この頃は訳の分からない建物、としか認識できなかったのです。
アンコールの遺跡、もう一度見たいなぁ!
English
イラスト by freehandz